リノベーションというより改造。
雨降りの浜村温泉hama villa
YABASE
DOHYO CENTER
にいってみたかった
鳥取でボートと
人生最高のピザと出会う
山陰道を西から東へ、
東から西へで
脳がヘトヘトになった
果ての脱輪と猫の啼き声
AIR475の10年を聞く
鳥取の営みとアートと
私の記憶をのぞいた旅
Text by
さっぽろ天神山アートスタジオ AIR ディレクター
1966年 広島市生まれ。アートプロジェクト企画運営、アーティスト・イン・レジデンス事業設計・現場運営者。npo S-AIR(北海道)、Trans Artists(オランダ)、アーカスプロジェクト(茨城)、VISUAL ARTS FOCUS(フランス)など国内外のAIR事業とその背景に関するリサーチおよび、AIR事業設計や創造的活動のための環境整備に多数かかわる。アートとリサーチセンター、さっぽろ天神山アートスタジオAIRディレクター。
2022.9.25-10.02
新千歳空港から羽田と乗り継いで鳥取コナン空港に到着したのは、9月25日(日)のこと。羽田から同じ便に乗り込んだボート・チャン(張 小船 Boat ZHANG)とバゲージクレームで合流する。最後に鳥取コナン空港を利用したのはいつだっただろう、『ホスピテイル・プロジェクト(HOSPITALE PROJECT)』でトークに呼んでもらった2019年1月だったかな、と思いながら預け荷物の到着を待っていた。今回は、鳥取藝住実行委員会と打ち合わせを重ね、1-2年かけて鳥取県内のアートと暮らしの営みのリサーチをする。このリサーチを経て鳥取県内、県外からの関心に応える、関心の入り口になるようなそれらの営みのデータベースをつくるのが目的だ。リサーチ先のリストを作成してくれたのはウェブマガジン『+〇++〇(トット)』編集長の水田 美世さん。
初めて鳥取を訪れる相棒ボートと、まずは写メを撮る。コナンだらけの空港内だけど、コナンはよく知らないから、やっぱり安定の蟹の前になる。出発前、鳥取への旅を準備中に北海道からのおみやげに日本で一番美味しいと思っている北海道のじゃがいも「キタアカリ」をチョイス。農家さんから仕入れた10キロは、7日間の旅行の荷物を上回る重量。鳥取の人たちと出会い、話す予定の私はアーティスト・イン・レジデンス運営現場からみたリサーチを行うために来たのだが、ずいぶん以前から鳥取県とはゆかりがあるのです。母の故郷が倉吉市明倫地区だった縁で、2010年に事業開始した『明倫AIR』の立ち上げに関わってもいた。物心つくころから繰り返し学校の休みには長めの滞在をしていたし、2017年に105歳で大往生した母方の祖母が明倫地区の越殿町の家で暮らしていたので、年に数回は鳥取県に来ていた。だから、私にとって鳥取県はただの仕事の場所ではない。ときどき覗き、暮らした断片的だけれど膨大な記憶と、今となっては訪れる理由を失ったこの場所と私が、これからどのように折り合いをつけるのか知りたかった。そんなプライベートで湿っぽい気持ちを抱えて鳥取に向かうのだから、手土産は定番の六花亭のバターサンドじゃ、なんとなく他人行儀な気がしていた。足掛け20年を超えた私の北海道での生活の実感をいっしょにもっていきたかったのだ。少しどうかしているけど、鳥取へと向かう私は軸足を失い宙に浮いたまま拠り所のなさでいっぱいになっていた。月形町のキタアカリがそんな私の重しになってくれれば。
到着口をでると、リサーチを伴走してくれる鳥取県中部在住のキュレーター 岡田有美子さんが出迎えてくれた。
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プロジェクトスペース ことめや / 鳥取市
鳥取駅から徒歩5分程度の距離にある『プロジェクトスペース ことめや』は、古い旅館の建物をオーナーの温かい理解に支えられて鳥取県立博物館の学芸員でもある赤井あずみさんが管理運営しているオルタナティブスペースプロジェクトで、コワーキング・スペース。鳥取でリサーチ活動や滞在型の制作活動を行うアーティストたちの宿舎としても使われている。
元旅館の二階建て木造家屋で、二階にあがる階段が二つあり、客室にアクセスするためだろうか、台所からのアクセスがちょっと迷路のようになっていて面白い。
ことめやが今回の私たちのリサーチの滞在拠点になる、旅の終わりにはまるで実家のようにほっとする場所になったし、二階に上がる階段の途中に隠し部屋のようにある物干しスペースが私のお気に入りの場所にもなった。
なんだけど、最初の晩はたくさんある部屋の中で、ボートはベッドと机のある部屋、私はその向かいの部屋を陣取った。初めて寝る場所は、特に、いろんな営みがあった古い建物というのはいまだに怖い。なんだかいろいろ想像してしまう、が、ボートもいっしょなので寝入るまで少し部屋のドアを開けてお互いの気配が感じられるようにしたことは白状する。
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円形劇場くらよしミュージアム / 倉吉市
HamaVilla / 鳥取市気高町
この日の朝は少しゆっくり過ごした。ことめやのあるエリアは鳥取駅前の商店街に隣接しているから、朝からやっている喫茶店とかあってどこにいこうかと目移りする。今日からレンタカーを借りて県内を移動しまくることになる。
鳥取市内から倉吉へ国道を走る。白兎海岸で一休みして日差しの強い海まで歩く。ボートとやっと旅の境地を感じた。海が旅情を引き出してくれる。
そしてまた西へ。
さっそく、倉吉市で岡田さん、鳥取藝住実行委員会の委員長も務める鳥取大学地域学部准教授の竹内潔さんと合流して最初の訪問では、鳥取県立美術館開館までに様々なプログラムをやっていく場所になるだろう『HATSUGAスタジオ』のビルを目指した。家電量販店のすぐそばにあり、ボートと私はここのマッサージチェアで一休みする。
訪問した中瀬ビルは、バレエ教室が入っているようで、学習塾のような懐かしいたたずまい。三階が空いているようで、この場所でこれからどんなことが起こるのだろうかと、みんなそれぞれに妄想する。空いている場所でおもしろい使い方をあれこれ妄想するのはやめられない癖である。
屋上に上がると建設中の美術館のあたりが一望できる。倉吉を高いところから眺めたことはなかった。記憶の中の高いところといえば、夏の花火大会をみるためにあがった祖母の家の屋根の上。せんたく干場の先に、祖父の植木の苗が並んでいたりした。二階の窓から屋根の上に出ることはけっこう当たり前のことだった、そして私の記憶ではそこが一番高い場所だった。
ビルの屋上からあたりを見回しながらオーナーの方と会ってしばしお話を伺う。倉吉にUターンしてきたという娘さんはこれから実家をどうしていこうかと楽しみに計画されているのが伝わってきた。
次に、明倫地区の『円形校舎』の近くまで移動する。この辺は馴染みのエリアでいろんな記憶が押し寄せてくる。ここでは、過去に明倫AIRに関わっていて、現在は、市内商店街の古い町屋を調査して改修するプロジェクトをコツコツと進めている中山晶雄さんにお会いした。おぼろげに、「くらよし」としてひとつのエリアと捉えていたけど、明倫と成徳のそれぞれの地区の特徴や風情はまったく異なるようだった。私の祖母の家は、明倫地区にあり打吹公園にいく途中にある成徳地区の商店街は馴染みある場所だった。子どもの頃はアーケードがあり、ちょっとした都会感があって歩くのが楽しみなエリアだった。わりと最近の記憶(でもないか30年くらい前になる)祖母とこの通りを歩いていて、カバン屋さんに立ち寄ってお店のおばさんと祖母がおしゃべりを始めた。私は店の中でブラブラとしていてアンティークの和装用のビーズバッグが目に止まった。それを「かわいい」と言うと、なんと赤い梅の花が刺された小さなバッグともうひとつくださった。「もう売れないから」と。いまだに私のクローゼットにはこの時のビーズバッグがひとつだけある。梅の花のバッグは友達にあげてしまったけど柄はまだ覚えている。
母と行った喫茶店の跡も見かけた。こんなふうにあの道を歩くとボロボロと記憶がこぼれてくる。
でもこれまでの私は道をただそぞろ歩き通り過ぎていただけで、一軒一軒の店や家屋はほとんど覗いたこともなかった。今回、中山さんの案内でようやくウィンドウの奥へと入ることになった。
町家はいくつかバリエーションがあって、ほとんど廃屋のように一部が朽ちているものがあり、そんな物件には好奇心よりも心が痛んだ。リノベが始まっている物件も江戸時代から昭和、平成の生活がじっと積もっている。大量のものがあるだけでそこには人がいないのだ。趣味で絵を描いていた方が住んでいたという洋室がある物件も、奥に入ると茶室や離れや広い台所がある立派なお屋敷だった。人が暮らし活気に溢れていた時代を想像した。
中山さんの実家『翠香園 津田茶舗』は細部のいたるところまで一切手を抜かずにリノベーションがなされていて見事だった。倉吉の町家の奥深さと洒落た造りに驚嘆した。こんな豪奢な奥行きがあったとは!中に入らなければ、私は倉吉をなにも知らずにいたことだろう。
終わりにリノベされてカフェになった場所に座り話を伺う。立ち上げに関わった明倫AIRの、私が知らなかった時期の話。非公式ながらも最初のインタビューがここまで盛り上がるとは、、、。これからのインタビューの旅が恐ろしくなる。ともあれ、この日訪ねたいくつかの町家、空き家の景色に圧倒されていたし、現在の様子に足を踏み込んでしまって、私はどうやら深く傷ついてもいたようだった。うまく処理できない感情。
それに気づいたのは、翌日に備えて宿泊することにしていた鳥取市気高町、浜村温泉の『HamaVilla』に到着したときだ。このゲストハウスは、古い美容室とご自宅を徹底的にリノベーションしている。リノベーションというより改造だ。現代のパーツや機能で再構築されていて清々しかった。いつもの生活と近いスタイルで過ごせて正直ほっとした。時の止まった景色は予想よりもキツかった。
移住してHamaVillaと喫茶ミラクルを営むご夫婦にもチェックインのときに少しだけ会った。次回はゆっくり話を伺いたい。忘れないように一枚だけ写真を撮る「テルミー美容室」。
ともかく、この日の晩はHamaVillaの空間によって鳥取にきてようやくくつろいだ気分になった。鳥取に到着してからずっと古く懐かしいものにまみれていて思いの外心が弱っていたから、自分を取り戻したような気分になってちょっと強気になった。その反応自体が自分ではとても興味深かった。そして、その晩はずっと雨が降っていた。
ボートがりんごをむいてくれた。
(後日振り返ってみたら、この日の写真が極端に少ない。倉吉の写真がほとんどないのに驚いた、町家に興奮して、その景色に胸がつぶれてなんだか混乱して撮る余裕がなかったのだろうと自己分析する。)
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ことるり舎 / 鳥取市気高町
タカハマカフェ / 鳥取市
鳥取R29フォトキャラバン / 鳥取市
起きたら、まだ雨降りだった。
竹内さんと合流して、『ことるり舎』を訪ねる。ほんとうは浜村温泉の町をひとまわりふたまわり歩いてみたかったのだけど、そんな時間はなかったのが無念。
ことるり舎は、宿泊した場所から歩いてほんの数分で浜村駅から続く同じ道にある。お土産屋だったという場所を再活用されている。フルーツ牛乳が入っているようなガラス製の冷蔵庫や小さなテーブル、ここに人が集まるんだなと予感させるような町のよりどころのような場所だった。この場所を訪ねて以来、私は路面でガラス戸が広いお土産物屋のたたずまいがとても気に入って、北海道に戻ってからはついつい物件を探すようになっている。登別駅前あたりはどうか、とか。きょろりきょろりとせわしなく物件を探している。
いまは鳥取市に合併されたが、気高町の浜村温泉は海沿いでもあり温泉資源が豊富なこともあり温泉町として賑わったそうだ。民謡「貝殻節」のふるさとでもある。私の世代には、貝殻節はNHKドラマの「夢千代日記」の中で、温泉芸者の吉永小百合と樹木希林が儚げにけだるく踊りながら歌う場面を思い出させる方もおられるだろう。
そして、実際には聞いたことはないけれど私の母が広島に嫁いでから「何が芸をしろ」とつっつかれると「貝殻節」を歌った、と広島の祖母から聞いたことがある。おとなになって貝柄節を調べたら、帆立貝漁の辛さを自虐的に謳ったものだと解説にあった。熱烈恋愛の末に広島に嫁いで、慣れない土地でずいぶんと苦労していた母の境遇と重なるところがあっていまだに胸がちくちくとする。かわいやのーかわいやのー、ああ、切ない。
そんなこんなでいろんな思いが行き交う中、ことるり舎の荒尾極さんと純子さんからお話を伺った。「ことるり」という名前が愛らしいので由来を伺うと、純子さんの友達がつけてくれたんだとか。お二人は大阪の美大出身で荒尾さんのお父さんが浜村出身だったことが縁で、大阪から浜村に2011年に移住してことるり舎を始めたのだそう。荒尾さんは私と似ていて、孫として浜村と縁があった。
そこから、ことるり舎をアートスペースとして活用したり、近年は主に映画作りに集中されているとのことだった。荒尾さんは、「鳥取は映画作り、映像制作には適した場所。地域にとっても、撮影部隊が一定期間地域に滞在しながら制作活動を行うため、地域の温泉、食がアーティストに限らず、制作に関わる多様な専門スタッフの滞在制作に大きな楽しみになるのは魅力。特に、温泉町は大人数を受け入れる環境的な条件があるため、所帯の大きな撮影隊の受け入れも可能。映画制作は「外に出ていく活動」だから、地域の人にとっても活動が見える形になり、興味や参加を促すこともある。また、撮影だけではなく、取材から作品の構想を組み立てる(プリプロダクション)から、撮影まで行う制作となると半年以上の時間をかけて制作者と地域が関係を続けることになる」と話してくださった。
きっかけは、大阪で映像の仕事をしている時、周りが必死になってロケハンをしていたのだけど、荒尾さんが子どもの頃からたびたび訪れていた浜村、鳥取なら、絵になる場所がたくさんある、と記憶がつながったことだそうだ。
確かに、関西圏からの鳥取はほどよい距離だと言える。
町の人の気持ちに寄り添いながら、浜村で映画をつくる、撮影をするフィルムコミッションの役割をことるり舎は果たしているのだ。
個人的な質問だったのだが、「このままここに暮らすんですか?」と聞いたら、「親戚がいたり、祖父が郵便局員として地域と深い馴染みがある方だったので、孫として地域には穏やかに受け入れられた。実家は現在宮城県内だが、父方の実家である浜村にこのまま住み続けていきたい。」と静かだけど強く答えてくださったのが忘れられない。
ことるり舎とおふたりの暮らしが、まるで映画のようだなと思ったのでした。
竹内さんといったん別れて私とボートは鳥取砂丘に向かう。
まだ私たちは旅のペースがつかめなくて、いきあたりばったりな道中を続けていた。私は運転にばたつきながら、でもなにひとつ見落としたくないような激しめの欲も捨てられず、ちょっとイライラしていた。まだ小雨が降っていた。
お昼ご飯を食べ損ねて、砂丘に行って売店でたこ焼きを食べた。
観光地によくあるお土産物屋の中に、豆柴がつながれていてかわいかった。案外、そこは居心地が良くて、あたかもそこにいた柴犬の仲間にでもなったかのようにぐだっとのんびり過ごした。そうだ、ボート=アーティストといっしょなのだ、ボートのペースに合わせてやってみよう、と初心に返った次第である。
アーティストはこういう局面で実に偉大だ、特にボートは最強だ、小船はぷかぷかとどんな波の上でも楽しげにしている。アーティストとこのリサーチを共にしようと決めた私、正しい。
水本俊也さんが待ち合わせに指定したのは、鳥取砂丘にオープンしたばかりの隈研吾設計『タカハマカフェ』。おされである、びびるくらい。びびりながら水本さんと竹内さんの到着を待つお洒落とは無縁の落ち着かないふたりだった。
水本さんはこれまでのフォトキャラバンの資料、ご自身の活動資料を完璧に携えていらっしゃった。できる感じが伝わってくる。八頭町出身で現在は神奈川と鳥取の2拠点で活動されているという、船上カメラマンでもあるという水本さんから面白いお話をたくさん聞くことができた。ボートも実は大学では写真を専攻していたと話すとますます盛り上がって行く、、、。
水本さんが講師、コーディネーターとして関わっている『鳥取R29フォトキャラバン』は、「日本風景街道」に認定された国道29号沿いの風景、鳥取砂丘など鳥取の風景を切り取る撮影会。小学生からおとなまで参加できるプログラム。「2016年からAIRも運営している。鳥取県内には因州和紙の工房があり、この文化を発展的に継続していく目的もあり、ヴィジュアルアーティスト、写真家の創造性を通して和紙の可能性を見出すレジデンスを目指している」、と熱く語ってくださった。また、ご自身では、2013年から『小鳥の家族』プロジェクトを開始。このプロジェクトは、鳥取の自然を背景に家族写真を撮影、因州和紙でプリントして展示をしている。
鳥取砂丘で夜を過ごす自然体験会もやっているとのことで、驚いた。札幌でも真冬のモエレ沼公園で雪上キャンプしてたりもするし、そういうことか!と意味不明な納得をした。鳥取県は星が綺麗なんだそうだ。
過酷だけど、満天の夜空とかダイヤモンドダストの真っ白な世界とかあらがいようのない美しい世界に自分を投じてみたくなる感じ、わかる。砂丘の夜空はほんとに綺麗なんだろうな。
水本さんの仕事はフォトキャラバンも、小鳥の家族もそうだけれど撮影会や体験会を通して、第三者に経験を提供しているのだなと思った。私の信条ですが、「食べ物が身体をつくり、経験が私をつくる」、だから経験はその人の人生の一部に必ずなると思っている。そして、撮影者にもなれるし被写体にもなれるという「写真」の強みが発揮されているなあと感心したのだった。話の後半は、水本さんが今もっとも心を寄せている因州和紙に関するものだった。鳥取の伝統的な手仕事、産業を現代の表現になんとか結びつけていきたいという強い思いが伝わる。和紙で作品を制作してみたい現代のアーティストはわりと多くいるような気がする。あたってみるか。作戦会議のようになってインタビューは終わった。
カフェの外にでると夕暮れが近かった。ボートは、鳥取への旅が始まる前から「砂丘に行きたい」と言い続けている。翌月の、東京で予定されている展覧会のために新たに作品を作りたいのだそう。砂丘の入り口まで行って眺めていると、馬の背を超えてそのまま海まで行きたそうにしていたけど、ボートをひっぱって閉館前の砂丘博物館に慌てて駆け込む。私は博物館の地学の展示に心奪われた、最近この分野に惹かれている。プライベートで鳥取に来ることができるなら、観光船がある岩美を訪ねたいのだが、いつ行けるだろうか。今も観光パンフレットを眺めている。鳥取市のさらに東、岩美町、未知の場所。
ことめやに戻って、夕食と温泉にでかけた。
鳥取駅前の市街エリアには複数の銭湯タイプの温泉がある、すばらしいことだ。ことめやの管理人赤井さんは「温泉いく?」「温泉いったら?」となにかにつけて言う、ご本人は気がついていないだろうが。会話の中でかなりの頻度ででてくるのがほほえましい。
ともかく、そして風呂上りのボートと私は人生で最も美味しいピザを食べることになったのだった。3日目にして、「鳥取はおいしい」と二人の中で早々に結論がでた。あまりの美味しさに、「シェフを呼ぶ」といって本当に呼んだ人を初めてみた。ボートは称える気持ちを隠さない、こうありたい。アーティストに教えられ、である。
SPOT&MAPへのリンク
西郷工芸の郷あまんじゃく / 鳥取市河原町
ギャラリー&カフェ okudan / 鳥取市河原町
えばこGOHAN / 鳥取市河原町
平尾とうふ店 / 鳥取市河原町
AIR475 / 米子市
野波屋 / 米子市
森谷アパート / 米子市
朝、自宅から来てくれた岡田さんといっしょにことめやを出発する。
鳥取市街地から車で30分ほど、南の方へ、千代川に沿って中国山脈の方に進む、鳥取砂丘を遡っているような感覚。途中で右の山手に城が見える。河原城と呼ばれているらしい。ふるさと創生一億円事業で建設されたようだけど、鳥取砂丘まで眺望することのできるお城山展望台。1580年に羽柴秀吉が鳥取城攻めで因幡地方にやってきた際に陣をとった山(丸山城)だという。ここに秀吉?と浮き足だった気分になるが、中世か、戦国時代この辺りはどんなだったんだろう、と考えているうち目的地の『いなば西郷工芸の郷』エリアに到着した。ここは、陶磁器工房、ガラス、木工、銀細工と七宝焼の工房が集まる。シェアハウスを活用した滞在制作も受け入れていて、主に工芸分野の作家移住を進めているという地域。里山である。また、ここは鳥取県の文化政策で支援重点事業3箇所(鹿野町/鳥の劇場、大山町/こっちの大山研究所、河原町/いなば西郷工芸の郷あまんじゃく)のうちのひとつだ。
低い山々が連なっている間を川が流れていてその間をぬうように田んぼや集落がある。まずは、いなば西郷工芸の郷の中心ともいえる『ギャラリー&カフェ okudan』へ。いなば西郷の郷にアトリエを構える作家たちの作品が展示され、作家の器で喫茶が楽しめる。近づくと、周りには車があふれるように止まっている。ひゃあ賑わっているじゃないか!と入って行くと、午前中は悪天で農作業ができなかったからという理由で、地元の方で満席状態。ああ、確かにほかの里山とは違うなと直感した。「普段はこんなに混み合ってないんですけどね」とギャラリースタッフの山川良子さんに説明を受けたが、年に一度開催される工芸祭りには県外からもたくさんの観光客の来訪があるそうだ。ギャラリーの中で地元のおじさんたちと話をした。なんだか仲が良さそう。お茶をしたいところだったけど、最初に昼ごはんを食べる計画で、おすすめの、古民家をレストランにして営業している『えばこGOHAN』に急いで向かった。通された室内から庭が望める。庭には大きな金木犀があって満開だった。
広島の実家にも大きな銀木犀と金木犀があって、あたりまえのようにその風雅な季節を過ごしていた。ただ、金木犀というと私には東京で暮らした頃の記憶も重なり合う。杉並や世田谷の住宅街でどこからか薫る金木犀。北海道では一般的な樹木ではないので、数年振りの感覚だと思う。薫りが記憶を刺激して止まらない。20年前、北海道に来るまでのことがもはや時空が歪みまくって押し寄せてくる。
えばこの食事は昨晩の定義「鳥取はおいしい」を改めて確認し合うようなご飯だった。庭の金木犀を眺めながら、過去のいろいろなところにいってしまっている気持ちは定まることを知らない。
昼食後、いなば西郷工芸の郷の仕掛け人である北村恭一さんとのアポイントのために、あわててえばこを離れた。北村さんのご自宅は山の斜面をとりこんだ本当に気持ちの良い空気が流れていた。門から入って行くと庭の小屋で、okudanで会ったおじさんたちが麻雀をしている。窓の外から挨拶をして家の方に。
北村さんは鳥取市内出身で、大阪で建築会社で定年まで活躍されたあと鳥取へUターンされてきた。高校時代からカップルだったという奥さんと終の住処として選んだのが西郷だったとのことで、それまでは特に縁はなかったと聞いて驚いた。でも、こういう他所から来た人が、土地の良さを再言語化して地域の営みを新しいフェーズに推し進めるきっかけをつくるんだよな。
地元のおじさんたちの仲の良さが気になったので聞いてみたら、「この地域では江戸の初期から獅子舞を伝承してきたからその営みが地域の人たちを綿々とつないできているんだ」と話された。そのためかもしれない。そして古くから陶芸の窯があって、そこに第二次世界大戦後には進駐軍が日本のお土産として買い物に来ていたという現在の作家たちのアトリエ集落につらなる土地の歴史。さも当たり前のような口調だったけど、いなば西郷の郷の現在はちっともあたりまえな感じじゃない。だいたい、このおうちの雰囲気だって素敵すぎやしませんか。と心の中で小さく反抗していると、人間国宝前田昭博さんの器がさらっと目の前に出てくる。この作家の作品と地域の暮らしの距離感が嫌味なくらい素敵なのだ。というか、長年のご近所同士のもちつもたれつ、肩を寄せ合って暮らしてきた里山の暮らしに、たまたま人間国宝がいた、ということなのだろうとしみじみ納得する。
北村さんは、「在住作家たちがジャンルを超えて切磋琢磨する環境を地域として整えようとしている。人間国宝の作品と若い作家たちの作品が、展示室では同じように並び、同じ場所に生活し、工房を構える人同士、作家同士のフラットな関係を感じ取ることができる。コロナ前には、工芸の郷の作家たちは月に一度食事をともにする“昼食会”を実施していた。展示作業を手伝うために県内他地域から若い作家がきて、展示作業を通じた交流が生まれている。日本工芸展が主催して、3名がゲストハウス(シェアハウス)『よりしろ』に1週間滞在して、人間国宝の前田さんの工房で制作を行うプログラムがある。もう一軒地域内に元保育園の施設をシェアハウスに改造した場所があり、そこでは月単位の滞在をイメージしている。人間ネットワークをつくる上で部落ソサエティがあることは強み。何かものを起こすというのは人だ」と淡々とおっしゃる。この素敵すぎる地域に、現代美術のフィールドの作家がまじったりするのもきっと面白いはず、と負けん気を発揮したくなった。揃いすぎてて隙がないという空気も感じた、何か新しいことが生まれるための余白というか抜けというかそんないい加減なところが見当たらない。
インタビューのあと、いなば西郷の郷がどこまでなのかを確認したくて境が来るまで山に向かって走った。
ただ山の道でなにもない、この辺で引き返そうかと車を止めて、一服。
きた道を逆さに辿り、集落、お話を伺った北村さんのご自宅あたりを通り過ぎる。お話やここでうけた印象を反芻しながら、これからの流れの中で、今、地域にアトリエのある若手の作家さんたちや次の世代なんかで、整いすぎない状況、新しい何かが起こっていくといいなあと考えていた。
さあ、鳥取の東の奥から今夜は西のはじ、米子まで移動する。
いなば西郷の郷から山陰道に乗るまでの間で、グルメな赤井さんから「必ず寄って」とマップのリンクが送られてきたお豆腐屋さん『平尾とうふ店』に寄り道。ボートはここのソフトクリームに撃沈した。私はもはやいろんな出来事でお腹いっぱいだった。そして、その疲れのせいか道に迷ってしまった。細い山道をずんずん行くしかないルート。やっと山陰道に出た。ここからひたすら西へ、日の沈むほうへ。
米子についたら、夜になった。約束の時間はとうにすぎ、『AIR475』の来間直樹さんにはお目にかかれなかった。
このリサーチプロジェクトの事務局を担ってくれている水田さん、AIR475の吉田輝子さんとは、ちょうどAIRの招聘作家で展示の真っ最中だった三田村光土里さんの会場『野波屋』で合流できた。
三田村さんはパフォーマンスを特別にやってくださった。ありがたい。そして、その特例のためではなく、ほんとうによい作品だった。三田村さんは、私が勤務しているさっぽろ天神山アートスタジオの人気プログラム「アート&ブレックファーストデー」のオープンコンセプトの創始者。札幌でも何度かお会いしていたので、この旅の中で三田村さんからお話を聞くのも楽しみにしていた。AIRは、私のような運営者が考察したり語るとき、ともすると運営目線の一方向に偏りがちだ。AIRはそもそもアーティストの制作過程を支援するしくみなので、支援対象のアーティストの視点、ニーズを軽視してはならない。アーティストが受け取ったAIR475について、というよりももっと広くアーティストにとってのAIRの必要性を改めて聞かせてくださった。「(AIRは)作品をつくるという必要な過程を与えてくれるなくてはならないもの」と言ってくださって沁みた、、、。水田さんが用意してくれたケータリングのおいしいおかずを肴に、三田村さん、いい感じでビールが回ってる。展示をオープンさせて間もない上に、展示の中で毎日地元の人が出演するパフォーマンスが組み込まれている作品だから、疲労はピークだったに違いない。ありがとうございます、三田村さん。無茶なスケジュールでやってきてごめんなさい。だけど、今日のリサーチ、AIRを運営する私にとってはほんとうにたくさんのことを感じ取った豊かな一晩でした。
宿泊させてもらったのは、大家さんのご好意でAIR475が滞在場所に活用している民家『森谷アパート』。大家さんの母上が一人で住っていらした母屋と軒に隣接してアパートがある。これも町家の変則系なのかもしれないが、アパートの玄関からまっすぐの廊下を抜けた先に母屋がある。小ぶりだが室内は広々として居心地のよい家だ。
アーティストは母屋の方で台所や風呂を使い、寝泊りと作業をアパートの方でしているとのこと。三田村さんの滞在制作と発表をサポートしていた学生さんもアパートの一室に滞在していた。
こういう造りの物件がAIR運営に与えられているのはほんとうにうらやましい。
SPOT&MAPへのリンク
ほうきのジビエ推進協議会 / 琴浦町
海 / 琴浦町
塩谷定好写真記念館 / 琴浦町
こっちの大山研究所 / 大山町
米子の朝。夜ついて、翌朝には米子を出るスケジュールだったのでまちをまるで体験できないままだった。心残りが大きすぎるが、計画通り次に進む。
正直、お会いする人、訪ねる先のひとつひとつの情報量が膨大すぎて消化が追いついてない。完全に過食状態である、身体的にも。リサーチャーや取材をして紀行文を書くライターさんの内臓の強さやエネルギー量には、自分がとうていたりてないことを突きつけられているようで無駄に落ち込む。で、どう?ってボートにも聞いてみる。ボートもまた何をどう掴めばいいのか迷っているようだった。今日も同行してくれる岡田さんの待つ琴浦町へ、うじうじした気持ちを振り切って、「スケジュール」が今日も私たちを次の目的地に運んでいく。
琴浦町役場越しに海が広がる。
役場の中に入り、インタビューをうけてくれる荻野ちよさんを訪ねた。荻野さんは、兵庫出身。ダンサーとして2014年まで京都を中心に活動、地域おこし協力隊に応募し琴浦町に着任して8年が経過。現在は、『ほうきのジビエ推進協議会』事務局勤務をしながら琴浦に暮らしている。
琴浦町は、県内で3番目に移住者の多い自治体だという、「惑星コトウラ」というデザインの効いたポスターがイケイケ感を醸し出している。海の近さが、人を惹きつけるのかもしれない。
荻野さんが地域おこし協力隊員だった2016年10月に、町が所有している倉庫建物をAIR拠点にするために整備をしたのだという。事業スタートに、京都から荻野さんの友人(アーティスト)を招いてギャラリースペースをオープンした。倉庫だった建物の中に土が大量にあった。以前、相撲を招致したときの土俵に使っていた土だったとのことで、この土を使って「一人相撲」ができるくらいのシコを踏むための小さな土俵をつくったという。地域には人が集い、いろんな人が交わる場所がなかったことと、鳥取は相撲が盛んな土地柄であることから『八橋土俵会館』がそんな場所になることを願った。このプロジェクトについて聞いていると、独り相撲に土俵!?!なんで?とも思わずに、面白くなるしかないアイデアに興奮する。だが、オープンから2週間後に中部地震が発生。
地震のためにダメージを受けた建物を取り壊しすることになってしまった。タイミングもある意味絶妙で言葉を失った。荻野さんの絶望というか、その時の心境は想像できる。
鳥取県中部地震では、倉吉の祖母の家も屋根がくずれてたいへんな目にあった。その後の倉吉市内ではブルーシートで仮養生をした家屋をあちこちで目にするようになったのは辛い風景だった。さらに、人の住んでいない家は修理もされずそのままになる。1年2年と時間が経過すると、人がいる家と、そうでない家がくっきりとわかるようになってきていたのも痛々しく見えたものだ。
もちろんやる気に満ちていた荻野さんの心もがっくりきたんだということは話を聞いて伝わってきた。以降、いったん離れていた「ダンサーとしての活動」を「鳥取夏至祭2017」で再開して、琴浦町以外での活動に着手されたのだそう。荻野さんは、「京都時代はつねに作品のことを考えてばかりだったが、琴浦での暮らしが続く中で、「生活」と「ダンス」のよいバランスを見つけた。地域の中にいる“かわったおとな”(アーティスト)として琴浦町にいる感じ」とやわらかに話してくださった。今は、ダンサーとして新しい作品を制作したいという意欲が高まってきたというのもあって、これからどうしようかなと考えているとも。不思議なもので、荻野さんと話している時は、私が携わっているレジデンスでアーティストとゆるくおしゃべりしているような空気だった。絶望と希望と妄想や現実がめちゃくちゃに入り組んでる感じ、これから何か始めようかという作戦会議をしている風でもあり、その感じがなんだかうれしくて、ボートと岡田さんと4人でいつまでも喋り続けられてしまいそうだった。正直、インタビューを忘れていた、気もします。荻野さん、この先どう決断するのだろう。一方的に親近感を抱く、変なテンションになっていた。
荻野さんによると、琴浦町には空き家がたくさんある、しかも単身者には持て余してしまうくらい大きめの物件がほとんどらしい。興味ある人、いそうだ、私も海のそばなら暮らしてみたい。
荻野さんと楽しく時間を過ごしてすっかり昼ごはんの時間になった。今日は頼もしいガイド岡田さんがいっしょなので、おすすめの『海』という定食屋に行く。天気がいい、昼時で店はほぼ満席、いやおうなく期待が高まる。鳥取といえば、という魚がお品書きに並んでいるので、なにを選んで良いやら珍しく注文が決まらない。
満腹になったら、ほんとは海岸に行きたかったが次の場所へ。少し移動して、赤崎の小さな港で小休止。目の前の『塩谷定好写真記念館』に行く。ローカルの写真家の生家をそのまま展示室、資料館として運営されている。赤崎が北前船の停泊港になっていたこと、さらに塩谷定好の先代は北前船の事業のために北海道の東、襟裳岬の近くにも住んでいて、そこで亡くなったという北海道とのつながりを伺って、私の夢のプロジェクトが刺激される。
記念館の二階から眺める赤崎の海が、北とつながっていたとは、なんだか逃れられないような、うまいことつかまってしまったような気分になり、ぼうっとなった。ボートと庭に出た、スマホで景色を撮影したらオーブのような光がうつってしまった。どんどんやばい方向になっていく。
記念館の一階には喫茶室もあり、地元の方かのんびりお茶をされているのを見て、私も、と思ったものの、次のアポイントが迫ってることを岡田さんが慌てて教えてくれる。
記念館の外には小泉八雲のポスター。
急ごう、次は大山町。
山陰道から目的地で一般道に降りたところで、ナビであと10分という表示を確認したとたん、道路脇の車止めに乗り上げてしまった。レンタカー!!!
乗り上げただけかと思いきや、ホイールがへしゃげてタイヤはパンクしてた。やってしまった、、、しかし、琴浦町からずっとぼうっとしているのが続いていたから、状況が深刻に受け止められなかったのは幸いだった(幸いだったか?)。
やたらとよい天気のしたで、バイパスを眺め、田んぼを眺めているとどこかから猫の鳴き声がする。猫の姿を探してみたけど、見つからず。札幌のアパートで留守番しているうちの猫の生き霊かもしれない。
ことの顛末は、レンタカー会社の手配で自走不可となったレンタカーはレッカー移動されることになり、代車を借りることに。もちろんアポイントを入れてもらっていた『こっちの大山研究所』はキャンセルとなったのでした。代車を待つ間のローソンのアイスカフェラテはやけに美味しかった。鳥取県内、ローソンが多い。山陰道の最寄りはほとんどローソンなのである。そして、代車を運転してきてくれたレンタカー会社の女性二人は、全く無駄な話はせず必要なことだけ説明してテキパキと代車を渡してくれる。運転席の女性は、走り屋な雰囲気だったのが興味深かった。インタビューしてみたい。鳥取では車が必須、車が自由の象徴だと思う。鳥取で女が自由を獲得するのはハンドルを握る時なのでは?と勝手な仮説が出来上がる。ボートに、鳥取で自動車学校に行くっていうプロジェクトをしたらどうか、と提案した。たしか、広島の妹も、高校卒業前に倉吉の自動車学校の合宿免許にいってたはず。
大山町から鳥取までだいたい70キロ、この日の鳥取市内までの帰り道はほぼ無言であった。
しゃべらない、これもまた自由。
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ギャラリーカフェふく / 若桜町
ホスピテイル・プロジェクト実行委員会 / 鳥取市
鳥の劇場 / 鳥取市
鹿野芸術祭 / 鳥取市鹿野町
Y Pub & Hostel TOTTORI / 鳥取市
正直運転は好きではない、よそ見ができないから。
というわけで、この日は息子が乗り鉄だという岡田さんといっしょに電車で若桜町に行った。車内で、ボートと岡田さんが楽しげに喋り続けている、のを眺めているのは気楽でよかった。乗り物は好きだ。
運転のプレッシャーがないためか、若桜の散策はどっちに向かっても何を見ても楽しかった。よさげな店を見つけて昼食をとろうとしたけどランチタイムが終わっていた。しかし、ひやまちさとさんに会うために『ギャラリーカフェふく』に向かう途中で入った資料館の土鈴コレクションに大興奮した。
いい雰囲気のレトロな町の中で、唐突にズラしてくれるコレクションという狂気に思いがけず出くわしめっちゃうれしい、自分が蘇ったようだ。なんか昨日の疲れが吹っ飛んだ気がした、いいぞ若桜。予定調和や想定内はまったくもって退屈だ。その反対があるのは旅のありがたさだ。
ひやまさんが営むギャラリーカフェふくは、先客があってしばらく座って接客がひと段落するのを待った。作品の展示やショップもあって小さな空間だけど、レイヤーがふわりふわりと重なって広がるような豊かさがある、いいお店だ。ひやまさんは、目力があって声もしっかりしている。この人の存在だけで鳥取の未来が大丈夫なような気がしてくる。ひやまさんは、大阪生まれ鹿野出身、関西に進学、途中ベトナムに暮らし子どもが生まれたのを契機に鳥取へUターンした。
鹿野は移住者が多くて空き家を見つけるのが難しかったため、立ち寄った若桜町に家族で移住して、ギャラリーカフェふくを運営していると自己紹介をしてくださった。ひやまさんは、「小学校時代から町民演劇に関わりその場が転校生だった自分のサードプレイスとしてあった。その経験から演劇や舞台に興味をもち劇団にも参加していた。高校生のとき現『鳥の劇場』主宰の中島諒人さんが東京から帰郷し高校生演劇に初めて参加した。(その後鳥の劇場が成立)2016年に事業開始した『鹿野芸術祭』にアーティストとして参加。その後、アーティストの滞在型制作を含んだ鹿野芸術祭事業運営を2018年から芸術祭と地域をつなぐ主要メンバーとともに担う。移住した若桜は鹿野と違い雪深い地域で、昨年は4メートルの積雪があった。冬の生活は厳しいが、人の力が及ばない自然に畏敬の念を抱いていて、そこに若桜で暮らす意味を感じている」と一気に話してくれた。
ご両親のどちらかが北海道出身であることも教えてくださった。
ひやまさんは、鹿野町で芸術祭を運営している。それについて「鹿野は、自治体よりもまちづくり団体が事業を企画し運営することが多い。鹿野は尾道とまちづくり団体のネットワークがあった。そのため鹿野芸術祭以前に尾道からAIRでやってきたアーティストがいて、その存在と経験があり2016年に移住したアーティストに声をかけて手弁当で芸術祭事業を開始した。“鹿野の土地でその場所を題材にした作品を展示する”ことを目指して鹿野に住む人、縁のある人によって試行錯誤しながら手作りの芸術祭を実現した。アーティストがある場所に滞在しながら制作を行うことを“アーティスト・イン・レジデンス(AIR)”ということを知り、導入した。しかし、地域のアーティストではなく地域外のアーティストだけがフィーチャーされることには違和感を覚えることもあった。アーティストによる滞在制作・作品展示だけではなくワークショップ、上映会、子どもとおとなの表現教室など多様なプログラムで構成されている」という。AIRに関しても問題意識をもち、独自の視点で運営をしているところに学ぶところも多かった。
そもそも、こんな、こんなっていうとなんですが、ひやまさんのような早熟な子どもがどうやって現れたのか気になって聞いてみたところ、「高校生のとき鳥取県立美術館でとても感銘をうけた展覧会を見たのがきっかけ」、と教えてくださった。その展覧会をキュレーションしていたのが赤井さんだと聞いて、作品や企画がしっかりとだれかの心に残り動かしている事例を目の当たりにして感動した。
しかも、まだ年齢も若い鳥取の人が自分の軸でちゃんと生きているのに、心底希望を感じて、なんだかめちゃくちゃ安堵して、鳥取市内に帰った。
鳥取駅につき、そのまま私は二人と別れて一人ドトールに居座って暗くなるまで仕事をした。
鳥取県立博物館の学芸職の傍ら、ホスピテイル・プロジェクト、ことめやの運営をしている赤井さんに、もうひとつの居場所、『Y Pub & Hostel TOTTORI』のビルの中にある秘密のバーで話を伺った。
ホスピテイル・プロジェクトは、鳥取駅中心市街地にあった病院跡地と円形の特徴的な建物を活用したアートプロジェクトで、鳥取大学のプロジェクトとして運営されている。赤井さんは立ち上げから加わり、市民賛同者たちと展示やイベント、ライブラリーなど多様なプログラムを多く運営している。
赤井さんは米子出身で、大学で県外にでたあと東京でAIRに携わり、鳥取県に学芸員となって戻ってきた。その経歴を経て、赤井さんにひっかかったモノコトが、ホスピテイル・プロジェクトでアンプリファイドされているように思える。鳥取に戻ってきたときの仲間たちとの出会いを聞いていると、こちらまで涙汲んでくるような温かさ。赤井さんの背骨の周りの筋肉のようにガチッとした仲間がいてほんとうにうらやましい。いい話やアツいな、と思い出しても人情譚に泣けてくる。ホスピテイル・プロジェクトのひとつひとつのプログラムはだから血の通った感じがするんだなと納得もした。
興味深かったのは、ホスピテイル・プロジェクトでゲストを招いたトークをやると、ほんの数日前に広報をしても結構人が集まってくれるという実態、そしてリピーターも多いという。日本でもっとも人口が小さな県で、トークのイベントに20人以上集客できるプロジェクトはすごいと思う。自治体では、「リピーター」は低く評価される(できるだけ裾野を広く、よりいろんな人に、という謎の自治体軸)が、文化芸術事業のリピーターは、コミットメントやそれによる影響、作用の方が重視されるので高評価のクライテリアであろう。
この成果こそが重要なのでは、と思う。
この日、赤井さんとの話で記憶に残っているのはまた別の種類の話だが、これだ。
鳥取でのアートプロジェクト、アートや思考のバックグラウンドが、古事記や日本書紀だったりする。つまり、人、社会、プロジェクトを考察しようとするとここまで遡る必要がある、教養として押さえておかないといけなそうという話だ。うっすら感じていたこの件を赤井さんに質問すると、「当然」と即答だった。この事実は、初日から私をのけぞらせていて、取り扱い不能な気分になっていたのだ。なんなら、うっすらコンプレックスを感じてしまうくらいで。
私が北海道でぐいぐいバックグラウンドに沈み込みながら日々アートプロジェクトを考えているのは、北海道単体の歴史の面白さにある。本州の中世あたりアイヌ期以前はざっくりしていて、近代以降が混み合ってくる。亜寒帯の地層そのものである。そこが面白かったし(私にとっては)抑揚があると自分に都合よく捉えている。だから、比較すると本州は、しかも山陰はそうとう深い昔から現代までぎゅうぎゅうに詰めこまれまくっていて、慣れないと情報量の膨大さに負けてしまう。慣れないと、、、。いや北海道に慣れこの密度の薄さのおかげで大きく胸を広げて深呼吸ができる、すっかり道民。く、苦しい鳥取、呼吸が浅くなる。
バーの薄暗い光の中で赤井さんもボートもすっかり酔っ払っている。もう帰って寝よう。
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こっちの大山研究所 / 大山町
たみ / 湯梨浜町
汽水空港 / 湯梨浜町
jig theater / 湯梨浜町
リサーチの旅第一弾もとうとう最終日。
すっかり実家のようにくつろいでいたことめやともお別れ。
脱輪事故のせいでキャンセルになった大山町に赤井さんから再びアポイントを入れてもらって、鳥取市内から米子へと、また大きく移動する。レンタカーの代車がまた別の車に変わった。
昨日までの鳥取経験で、本音を言うとかなりホームシックになっていた。
こっちの大山研究所の大下志穂さんと仕事場に使っているという一軒家でお会いして、北海道っぽいフリーダムを感じるまでは、だったけど。
大下さんの仕事机(大きなテーブル)に座ると、「お茶出すね」といって庭からハーブを摘んできてくれた、床にはワンコがいる、なんだかフィールアットホームなんですよね。北海道では自己流を貫いている人が人里離れた場所にキングダムを展開しているのに出会すことがよくある。それと同じ匂いがする。
こっちの大山研究所は、「アートとともにある暮らし」「大山とともにある営み」をコンセプトに多様な視点で『イトナミダイセン芸術祭』に取り組む。大下さんによると、全国から米子から大山町に移住を希望する人が多い。縄文時代から集落があった(弥生時代の大規模遺跡:むきばんだ遺跡がある)。海が近くて開けていて人の営みが綿々と今につながっている。雄大なランドスケープで寛大な土地柄。集落外から来た人によって新陳代謝があったのではないか。古代から外からの風を受け入れてアップデートしてきた場所。現在も集落はイトナミダイセンという祭りを静かに見守っている、と。ふむふむと話に引き込まれていく。大下さん自身は、「淀江町出身、2009年にUターンした。集落にとっては移住者と同じだが、親戚がいるとか地元であることは集落からの信用を得るには役立った。アニメーションを仕事にしていたもののバックグラウンドはアートではない。自分の感じたことを毎年やっている。外からのアーティストを迎えるとき、集落にとっての移住者だった大下さんは「自分は地元の人になった」と感じてフェーズが変わったことを実感した。芸術祭以外の時期も仕事と生活とまったくわけずに芸術祭も営みとして生活設計している。占星術もしている。
芸術祭は本気の遊び、みんなでつくる作品。暮らしの中にわきおこる自分の熱量を表現することの強さによってグラウンディングしていく」と大らかに語ってくださった。
フェスティバル前で忙しい中、ありがたい。
ひとしきりお話を聞かせていただいて、山の方に案内してもらった。山の方の集落が、ほんとうに素敵だった。そこに地域おこし協力隊として赴任してそのまま大下さんとイトナミダイセンを牽引する薮田佳奈さんとお会いした。彼女の家が、新しい場になっている様子に、その建物空間とともに感嘆する。ここでは、札幌でちょくちょく仕事をする松本力さんも一度招聘されて滞在制作していたこともあり、松本さんの話をしてなごやかに時間を過ごした。
フェスティバルの会場となった場所を巡りつつ、「集落でやっているということ集落になじみ貢献することを重ねて、大下さんが山の方の集落に移住してから5年目に芸術祭を実施した。主に西伯郡、出雲圏内から、また岡山、大阪東京あたりからの来場者がある。遠方からの来場者は知り合いの知り合いでつながりのある人たちなので会場内に雑魚寝、キャンプなど。コロナ時期は遠方からの作家招聘をしなかったが、地元の作家を招聘したことによって地域の豊かさを感じた。(遠方から作家招聘する)レジデンスの作家は滞在中どうしても制作に追われることになるので生活を楽しんでもらう余裕を失いがちなことが残念だった。しかし地元作家だけではなく、古代から開かれたこの地域のこれまでの営みと同様に、地元の作家と外からの作家がイトナミダイセンで交わって欲しい。いかに自分たちが楽しく芸術祭を遊べるか。めんどくさいこと(助成金の申請など)の負担が大きくなりすぎると続けられなくなって営みとは言えなくなるから、できるだけシンプルにして続けていきたい」と大下さん。
ここでもまた、土地、地域社会に軸をおいた独自の手法が展開している。力強いなあ。
そして私たちはまた鳥取の西から東へと移動する。
ちょうど演劇祭をやっている鹿野町、鳥の劇場で岡田さんと合流。
確か、一度来たことがあるのだけど事業本番中は初めて。そういうタイミングでもあったのでインタビューはなく、演劇を体験した。町の中で演劇が行われる作品を見た。第二次世界大戦下の鹿野町と広島の原爆、戦後の日本を集落の中を移動しながら体験する。面白かった。個人的には演劇が劇場で開催される時、観客としてその作品に完全に従わないといけない鑑賞状況が苦手で(たぶん、美術の人に多いと思う)、白状すると演劇を避けがちである。だけど、観客に身体的な自由がゆるされていてなおかつ目の前の芝居に自分のペースで集中できるこの形式はとても楽しかった。この演劇体験は初めてで喜びだった。
本番真っ只中で、芸術監督の中島さんには会えないよねと話してたけど、演目が終わってのんびりしている時間に、私は眼鏡を落とした。このハプニングによって「眼鏡の落しものー」というアナウンスをしていた中島さんに偶然にも挨拶ができたんだった。
そして、私たちはこの日の宿となる湯梨浜町に向かった。
以前から一度は行きたいと願って実現していなかったゲストハウス『たみ』を目指す。そして、たみが湯梨浜町で始まってから同じ地域にちらほらといい場所ができていると聞いていて、訪れるのを楽しみにしている地域のひとつだった。
ここのところ私は、zineをアーティストがつくる動きに関心を寄せている。天神山アートスタジオで始めた売店のプロジェクトでもこうしたアーティストのつくる冊子、本の取り扱いをしているから、香港のアーティストから「憧れている!絶対いって」と、勧められた『汽水空港』に直行。と思ったのに、この本屋の目の前の東郷池がちょうどゴールデンタイムだった。こんな綺麗な夕暮れはあるかっていうくらい綺麗だったから、見惚れてしまい店に入るのが遅くなってしまった。
日か沈む前に、と岡田さんがさらに案内をしてくれて丘の上に上がっていくと、『jig theater』の入っている建物があった。日が落ちるのを見届けてシアターのある階まで上がるのだが、途中にもカフェや面白そうな場所がちらほらある。このリサーチの旅の前までは、このような空間、場があって、どんな人がやって来るのか想像する材料が乏しかった、というか昭和の記憶で停止していたので想像できなかった。
だけど、なんとなくこういう人たちが来るのか、と実感がもてるようになっていたのは大きな収穫だった。
なにしろ今回は場所を訪ねるよりも人に会う旅だったから(はず)。
しかし、最終日も予定を詰めこみすぎた。すでに脳の容量は超えている。たみの蛇谷りえさんと夕食、最後の晩餐は肉だねとなって近くの焼肉屋さんに連れて行ってもらった。繰り返しになるが、最後まで裏切らない「鳥取はおいしい」だった。蛇谷さんと岡田さんはたみでプログラムを共同企画したりもしていてバディ感がある。
いろいろとたみのこと、鳥取市街地のY Pub&Hostel TOTTORIのことも聞きたかったが、肉が優先だった。次回へ回そう。
伝説の(?)たみは、噂通り面白くて、館内撮影禁止なのも良くてというのは今でも細部をスライドショーのようにランダムに思い出す。新しくギャラリー・フリースペースもできたばかりのようだった。また泊まりたいと思った。印象では、たみも鳥取市街地のゲストハウスの方も、働いているスタッフが率先して行動しているような気持ち良さがあった。ただ雇われているスタッフというより、能動的に動いているような気持ち良さ、この秘訣とほんとのところを主宰の蛇谷さんに聞いてみたいと思った。
最終日なので少し私たちのリサーチを振り返ろうとしたけど、もはや後半の数日はボートが何を撮影しているのか見ないように、気にしないようになっていた。旅の相棒への信頼か、ただの疲れなのかはよくわからない。おそらく後者であろう。
朝ごはんには、板わかめが出た。ああ、懐かしい、祖母がよく食事に添えてくれた。もうひとつの朝食の定番は茹でた鱒。ふっくらとしてご飯に合うおかずだった、と、たみの食堂で祖母の家の台所を想う最終日。
今思うと、朝から動タン(=動物性タンパク質)しっかりとってたんだな、ありがとうおばあちゃん、おかげでたいぶ大きくなりました。
3台目のレンタカーで湯梨浜町を出発し、鳥取空港に向かった。国道9号線の途中、魚見台からの日本海は観光地の土産物屋で売っている置物のようになって私に持ち帰られようとしていた。
9/25に札幌を出る時から来ていたサロペットを帰りにも着ていた。着替えるのが面倒で同じ服を着っぱなしといういつものルーティンではなく、リサーチ3日目にして「終わるまでこれを着続けよう、甲子園球児みたいに!」と願掛けのように同じ服を着続けることに決めた。子ども頃の記憶では鳥取はたいてい夏だった、毎年夏休みが始まると、両親は私たち姉妹を、オフホワイトの制服の車掌さんがいる芸備線の夜行特急に預け倉吉に向かわせた。翌朝、特急が倉吉駅に停車するとそこには祖父母が待っている。祖母の家の居間のテレビでは試合後の選手たちが泣きながら甲子園の土を集めて持ち帰る姿があり「あの土は鳥取砂丘から運んでいるんだ」、「勝利を祈って全試合が終わるまでユニフォームを洗濯しないんだ」というおとなの話を今でも覚えている。なぜか今回それやってみようと思ったのは鳥取に来たせいだろうか、もう秋だというのに。
今回は短い日程の中で東西に細長い鳥取県内を行ったり来たりした。巡った場所と人はそれぞれが独自の活動で、その場所に深く接続している。今回のインタビューや短い訪問程度の理解ではそこの「人と営み、アート」を網羅的に知ることも不可能だ、とうていコノサキの何かを私が俯瞰的に見つけることはできないと思った。ひとつひとつの活動、それぞれの人、アートや暮らしや営みの前提たるその場所で生きようとする、そのタフネスに圧倒された。
だけど金木犀はいつも満天の星のようだった。
2022.12.14-12.16
9月の末から10月初旬にかけて行った前回のリサーチで、時間をかけてまちを歩くことが叶わなかった米子市を再訪した。米子のまちを案内くださったのは、『AIR475』を主宰する来間直樹さん。冬季のフライトだったから、新千歳空港から朝早いフライトを心配していたのだけど、スムースに定刻通りの出発ができた。安心したのも束の間、羽田から鳥取の乗り継ぎ便が「条件付き」となったのだ。くしくも日本海側が今年一番の大寒波に見舞われた12月14日に、私は初めて米子鬼太郎空港に到着した。空路では到着空港の印象がその旅を決めてしまうようなところがある。バゲージクレームではいきなり目玉おやじが出迎えてくれ、この瞬間から私の心の声はすべて目玉おやじに吹き替えられることになる。十分に気分がアガって天井をみるとぬりかべ、、、ここはゲゲゲの鬼太郎一色だ。この世とあの世の境目を訪ねるちょっと冒険のような旅の予感にふるえた。それにしても、ひとつの県にふたつの空港は贅沢な配置ではあるし、この二つの空港の印象は全く違っていることも鳥取的なのかも。
私をさらにふるえあがらせたのが、空港でピックアップしてくれた来間さんである。下調べの段階で私たちはムサビの同窓生で、同じ学年で、同じ時間を同じ場所で過ごしていた、しかもお互いのことはなにもしらずにかなり近いコミュニティにいたことがわかっていた。ほとんどわすれていたムサビの2年間を否が応でも思い出させる、学生時代のように経験に対して100%無防備になってしまう米子のリサーチ、「来間直樹」、導入としては十分すぎるほどだった。
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AIR475 / 米子市
空港から米子市街地へと移動中途中の道路脇に広がる草地を指差して来間さんが、AIR475の過去に行ったプロジェクトのことを話し始めた。所有者不明、または耕作放棄地だったりとプロジェクトのために使用許可を得ようとするとややこしさにぶちあたるという地域の課題を聞く。レジデンスでは、土地とゆかりのないアーティストがやってきて悪意なく「触るとやばい」「面倒くさいからふれたくない」地域のあれこれにスポットを当てはじめることがよくある。住んでいる私たちが無意識に避けていることを「これ見たい」「これ気になる」と見つけはじめる。そこで、「これ少しデリケートですから、、、」と私たちがひるんでしまうと先に進まないし、レジデンスでよそ者アーティストを迎える意味がなくなるという立場を私はとっている。そうでもないタイプのレジデンスもあるだろうが、私がこの微妙な立場を維持できるのは私自身もよそ者で、気になるところをやっぱり完全にスルーできないからでもある。北海道に足掛け21年間暮らしていると、「私もよそ者」という感覚はさすがに薄れていくことも多くなってきている。アーティストのリクエストを受け止める時に一瞬躊躇が起こるようになった。それがいいかわるいかという話ではないのだけど、これは確かにAIRを運営する私の心境の変化だ。おかげさまで今回のリサーチプロジェクトではたくさんの方に会ってじっくり話を聞く機会をもらっているが、会った人ほとんどがIターン、Uターンでの方々だったのは興味深い。
自分が暮らす地域との関係と重なる部分も思ったより多いような気がする、もちろん人によるんだけど。
ずっとひとつの地域にいると気が付きにくいことはあるんじゃないかなと思う。微妙な立場だから、アーティストとの仕事や、アーティストと同じ方向を向く時に、地域の心理状態に寄り添いながら同時にアーティストに伴走することもできる。そんなリニアモーターカーみたいな疾走と浮遊感を味わえるからレジデンスがやめられないよねと同意されない独り言をつぶやく。はい、乗ったことありませんが、リニアモーターカー。
米子市街地に入り、来間さんのガイドで街あるきが始まる。来間さんが代表として取り組んでいるAIR475は、運営団体名でもありプロジェクト名でもある。地域における資源(歴史、文化、風土)をアーティストの視点から発掘し、活用するアート・プロジェクト。もともとは『米子建築塾』という団体で2013年から実施していたが、2016年以降は一部のメンバーで新規団体AIR475を立ち上げるかたちでプロジェクトを引継いできた。(リサーチプロジェクトの事務局を担っている水田さんもメンバーのおひとり)
米子市内の空き店舗や空き地を使って展開しているのがこのプログラムの特徴。運営メンバーが建築分野であることはこのプログラムの武器だなと思う。建物を介した町との関係を構築する。味のある建築物が実に多くて、歩きながらキョロキョロとしてしまう。招聘するアーティストがリサーチの出発点に、米子市街地の建築物とどう関わっていくかと思考することができる。またアウトプットとしての展示をイメージし易くもなるだろうと思う。現在は2年かけてレジデンスを実施しているというプログラム設計は、アーティストのアウトプットの質を高めていくことと、しっかりと町と人にコミットしたプロジェクトをやろうとするAIR475の意思とが見事に合致している印象だ。
古い町屋をリノベーションした観光案内所に座りながら、ここから合流した水田さんを交えて来間さん自身のお話を聞いた。来間さんは前述の通り、米子市出身。鹿野の鳥の劇場の立ち上げとほぼ同時期の2006年に東京からUターンしてきた。美大時代はバンド活動に明け暮れ、その後、建築家として活動していた。米子に戻ってきてから、地域の(鳥取の)アートセンターといった存在でもあった鳥の劇場に、来間さんが家族で通ううちに鳥の劇場でワークショップや舞台美術、施設の改修などにかかわるようになる。「暮らしとアートとコノサキ計画」の呼びかけで、米子を舞台にAIR事業(AIR475)に取り組み始めた。来間さんは「地域のためにアートが役に立つと確信している」とはっきりと発言された。
ほんとうは、この発言をブレイクダウンしなくちゃいけないのかもしれないが、もうこれで充分だった。米子に改めてきてよかった、と私も確信したから。
水田さんとサイゼリヤで事務的な打ち合わせをさっとすませて、駅前のホテルにチェックインした。お風呂にするか、食事にするか。
子どもの頃から鳥取に通っているのだけど、母の実家の(たぶん)親戚筋やお付き合いでは米子方面が登場してこなった。だから米子という地名に親しみはあっても、おそらく一度くらいしか来たことがないように思う。ほぼ未踏の町で、だからあてもなく歩いてみたいしなんでも見たいという好奇心を掻き立てられる。
そしてなんだかこの日は自分がおとなになったことを鼓舞したい気分になってて(なんでか)、よし、おとなっぽく地元の居酒屋にひとりだけどいってみるかと普段とは違う行動にでることになる。
それほど遅い時間じゃないけどすでに中心部も暗い、暗いのでやっぱり気後れしてあまり遠くには進まずホテル近くの寿司居酒屋に入った。当たりだ。この辺りから謎に孤独のグルメ的なスイッチが入り始めた。
井之頭五郎となった私は、気になるものをおとなっぽく次々と注文する。とはいえ、主にサバ。魚の中で一番好きなのがサバで、だからうちの飼い猫の名前にもなっている。ともかく、目の前の皿に全集中するのが楽しかった、こんな肉厚でうまいサバを食べたのは初めて!ぐらいの震える感動が、井之頭五郎バリの静かなたたずまいには隠されていたのだった。おかずは、子どものころから大学生までの走馬灯のようにぐるぐると回る懐かしい記憶、箸の間には肉厚のサバ。名物のサバ鍋はまた次回にする、ごちそうさまです。
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HARI / 米子市
Y Pub & Hostel TOTTORI / 鳥取市
午前中のインタビューの前に、ホテルを早めに出て米子城跡に行ってみた。山城でけっこうワイルドな道。当時、勤務していた侍達ここを毎朝通勤したのかしら!!とやけになりながらずんずん登る。
一番高いところまでたどり着くと、中海が見渡せる。水の道、また隣接する島根県とのつながり、そういう境目を超えた当たり一面に広がる景色に、妙な時の流れの納得をする。なんとも表現しにくいのだが。無理して城跡に足を伸ばしてよかったのは間違いないんだけど、待ち合わせのレンタルスペース『HARI』まで間に合うだろうか。飛ばし気味に歩いて市街地に戻って行った。
インタビューに使わせてもらったのは、AIR475メンバーでもある吉田さんが設計し運営を担っている気持ちの良い鰻の寝床のように細長い空間。そこに来間さんと、パートナーで高専で教鞭を取られている高増佳子さん。岡田さんも合流してくれた。
来間さんはこのインタビューのために膨大なpptデータと、印刷物を準備してくれていた。ありがたい、、、。
ここから3時間に渡って、始まりから現在まで、そして未来の展望をとつとつと資料を見せてもらいながらじっくりと、ほんとうにじっくりと伺った。
来間さんたち米子建築塾のメンバーは、「暮らしとアートとコノサキ計画」を契機に2013年から米子市内で空き店舗や空き地をつかってAIR事業を開始。現在は、運営、現地コーディネーターを主に米子建築塾メンバーで構成される市民団体AIR475が担う。アーティストの選定は、国内外で活躍するキュレーターが加わる。アーティスト選定をキュレーターに委ねることで、エッジの効いた国内外のアーティストが米子で容赦無くダイナミックなプロジェクトを展開しようとする。アート集団の運営ではないのに、AIR475のプログラムがクオリティへの期待をもってアート界隈に響いているのは、まずこの構造と、アーティストごとのリクエストに全力以上で応えようとして奮闘する現地メンバーが組み合わさっているからだ。主に建築家集団が現地でアーティストをコーディネートするので、プログラムスタート時に必ず行われる「まち歩き」は重厚かつ繊細で、アーティストとまちの時間軸も加わった立体的な接続を果たしている。それもまた、アーティストの意欲を喚起し大規模なプロジェクトプランへと展開していく。
招聘アーティストは一期一会ではなく、2年度をかけてリサーチ、制作、発表のプロセスをAIRフレームをつかって実現できる。バリューあるアーティストが招聘されて力を発揮しているのは、先にも記したが、このプログラム設計によるところが大きい。来間さんによると、招聘アーティストごとにプロジェクトの会場、内容はすべて異なる。その都度、現地コーディネーターは新しいことやものに直面する。ダイナミックなプロジェクトは地域へのインパクトも大きい。AIR475の成果展(展覧会)、関連企画(トーク、シンポジウムなど)で、公立館や大学関係者、県外アート関係者とつながる事業設計をしていること、プログラムが地元メディアに取り上げられることはまちへのインパクトをつくること、招聘アーティストのモチベーションをあげることに大きく貢献している。
と、これまでのAIR475の全てを一気に説明してくださった。
この後は、話の中にでてきている「暮らしとアートとコノサキ計画→鳥取藝住祭→totto」までの流れに関する意見を伺った。「鳥取県内各地の運営者が集うプラットフォーム」の必要性、「自分の拠り所がないと長く続けていくのは(自分のモチベーション的に)難しい」というAIR475を運営する中での課題など、私もひとりのAIR運営者として率直な愚痴なんかも話した。そして、来間さんからは、「アーツカウンシル(仮)に期待するのは、行政(資金面)、アーティスト、運営人材とつなげてくれること。藝住祭のときはプロデューサーがその役割を担っていた。そういう“優秀な御用聞き”の重要性」という意見が出た。それを受ける形で私は「現場に精通した専門家が予算を分配する、補助金制度を設計する」「広報・記録をつくってくれる」「鳥取の一覧性のある資料作成もいるのでは?」と答え、同席していた岡田さんからは、「自らの活動を言語化する、外部からの批評も必要ですよね」とか。
2年後に美術館ができるタイミングでアーツカウンシル(仮)ができたらどんな感じだろう、、、。
永く濃い時間のあとで、お昼でもという流れになり、お蕎麦屋さんに向かった。AIR475でアーティストが滞在していた建物の近くで街並みもお店自体も風情があり、もちろんここもおいしかった。
大学時代を共有している我々としては、その当時の昔話もつきないのだが、そろそろ帰る時間が迫ってきた。サバ鍋も食べ損ねているし、観光船にも乗りたいし、次の訪問を約束して米子を出た。
1回目に各地の訪問とインタビューで得ていた漠然とした方向性は、来間さんとの対話の中でクリアになり始めてきた。
昨日の町あるきの後半戦で、アーティストが滞在していた建物を見せてもらいながら、「夢は米子のまち全体をつかった大規模な国際展を開催したい」、と照れながら話してくださったことも記憶している。
鳥取へと向かう途中で岡田さんが北栄町に住んでいることもあって、途中の倉吉でおろしてもらうことにした。実家の菩提寺定光寺で墓参りをして、祖母や祖父、ならんで入っているおじさん達にも挨拶がてらこの米子の旅を報告した。
鳥取県内で公式には初めてアーティスト・イン・レジデンスに着手したのは、倉吉市明倫地区である。明倫AIRとして2011年に事業開始した。運営メンバーの一人として関わっている棟梁こと仲倉幸俊さんの営む商店を訪ねて「今年のAIRの顛末」「コロナで外からの来訪が途絶えている今だから何かを育てる、育つことができる」といった静かだけど前向きな話を立ち話で聞けた。仲倉さんは数年前に、この商店の隣家に施設の拠点をもうけていて、招聘アーティストの滞在先としても使っているそうだ。私の祖母の家と同じ町内でもある。夏の花火大会や盆送りで川の方へ向かう時の通り道だったことも思い出す。倉吉はいかんなあ、好みとは裏腹にセンチメンタルになってしまう。
倉吉駅にバスで向かい、JRで鳥取へ。
この日は『Y Pub&Hostel TOTTORI 』に宿泊した。カフェの一部とゲストハウスのレセプションのスペースには、いくつか商品が並んでいて山陰の底冷えする冬を想像しながらあったかい靴下を購入。衝動買いの理由はたくさんあるだろう?ホスピテイル・プロジェクトの赤井さんと食事をしながら、ここまでのリサーチを話すことでまとめようとした。一度、言葉にすることで少しずつ整理ができてきた気がする。
私がなぜいまここにいるのか、ということは意識しないとわからなくなるような精神の不安定さはまだありつつも。
米子の旅を終え、京都でのAIRシンポジウムに出席するために朝早い特急スーパーはくとに乗りこむ。山陰を抜けて関西圏へと向かう特急は、また子どもの頃の記憶をひっぱりだしてくる。特急の窓の金属の匂いは車両がかわっていても同じく感じる。そしてまったくネガティブな意味ではないんだけど、まだ墓場に座っているような気分だ。自分の見えない根っこのようなものが、つながっているような気がするそんな気分で鳥取をあとにした。
2023.2.25-2.27
梅の香り。
雪がもりもり残る札幌から鳥取空港へ。空港からレンタカーでナビを頼りに倉吉を目指す。
山陰道に行くのにこんな道を通るの、ほんとに??と不安になりながら暗闇の中を走っていく。雪灯りのために夜でも薄明るい札幌からいきなり闇の中に放り投げられたようで山陰道に入るまではずっと落ち着かなかった。この落差が今回の二泊三日の倉吉でのリサーチを予兆しているかのようだった。私にしてみれば、倉吉と明倫AIRは他の場所よりも因縁が深い。他の場所や他の人々と会う前のウキウキとした楽しみより緊張がある。抑えないといけない個人的な記憶の数々がありなかなか面倒だ。
距離が取りづらいのは当然なので、わざわざ倉吉駅前のビジネスホテルに宿をとった。仕事なんだ!と懐かしさに引きずられる気持ちを引き離した。なるべくフラットな心持ちで翌日のインタビューを迎えたい。窓の外にはJR倉吉駅。そしてあられ雪が降り始めてあっという間にあたりを真っ白に変えた。真っ白な景色を眺めて気分が落ち着いたのか、やっと眠くなった。
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明倫AIR / 倉吉市
このホテル、駅前の通りは洒落た雰囲気なんだけど、宿泊棟は少し古びたビジネスホテルだったのが明るくなって分かった。だけど、個人的にはそういう風情が好きなのでよい選択だった。
倉吉駅のプラットフォームをまたぐ階段を使って、山陰本線の反対側まで歩く。
元洋裁専門学校なのかな、その空きビルは良い感じ!その隣の神社の境内まで階段を上がる。
つばきの彫刻のある可愛らしい狛犬を見て朝の散歩を終えた。
チェックアウトの時間になったから、ホテルを出て越殿町の祖母の家に行った。せっかく倉吉にきているんだから家の窓を開けて空気を入れ替えたら、再び定光寺へ墓参りする。
菩提寺とうちの墓については、けっこうリアルな怖い夢をみたこともあって、怯える私は墓参りをスルーできない。詳細は割愛するけど。
定光寺は、大学の夏休みにスケッチに通ったこともあるし、子どもの頃は山門の上に上がれたので、いい気になって階段を上がったら、急な階段が恐ろしくなって下りられず、父に泣きついて下ろしてもらったり、必ず鐘を打ったりして音を楽しんだりと私にとってはそうとう馴染みの場所なのである。
墓からは大山を臨むことができる。祖母は祖父のためにこの場所に決めたと言っていた。2月だからか梅の香りがただよっている。
越殿町からは天神川を渡ってくるのだけど、かつて祖母の実家は川のほとりの材木商だった。
大正の台風だか地震の津波だかで家財産が丸ごと流れ、一家は破産し、祖母の父が大阪に出稼ぎにいくことになり、祖母の母は倉吉の町場で食堂を開きなんとか暮らしてきたと聞いている。祖母からは、大正、昭和の倉吉の街の人の暮らしぶりをよく聞いていた。越殿町で理容所を営んでいたのでなにかと噂話や情報が集まってきていたようだし、祖母はまた商売人として口は硬かったが好奇心も旺盛だった。地域には、グンゼの大きな縫製工場があったためか、女工さんも多かったしみんな気が強くてかっこよかったと。今は営業を終えてしまったようだけど、祖母が大社湯(銭湯)に通っていた時、隠し彫りという刺青の入った女性のお客さんがいて、お湯であたたまった体にふあっと刺青が浮かび上がってうっとりするくらい綺麗だったとか、そんなありとあらゆる種類の昔話を聞くのが私の楽しみでもあった。近所の話は書ききれないほどある。これはまた別の機会に書き留めておこうと思っている。
明倫地区から西町の津田茶舗で挨拶をかねて中山さんとまたお会いした。水田さんも米子から来てくださった。AIRの可能性や、町にアーティストがいることなどそんなよもやま話をすることができた。ただ、話している時間はめっちゃ寒かった。山陰の2月は底冷えがする。
冷えたので暖かいところに行こうと、新しくできたカフェに行ってみた。その近くにもレジデンスにするのに良さそうな空き家を発見。そうだった、そうだった、子どもの頃から倉吉の中に点在していた空き物件を見つけては、「こう使ったらいい」とか「こんなふうに改造したい」とか相当勝手な妄想を膨らませていて、これが私の空き家ハンター気質を育み、スクォッティングのスタジオやレジデンス好きな現在につながっている気がする。
そうこうしている内に、インタビューを申し込んでいる明倫AIRの川部洋さんとの待ち合わせになった。川部さんのチョイスで上井のピザレストランで食事をしながら話しましょうという流れになった。聞けば、川部さんが高校生の時から通っているお店のようで、確かに居心地がいい。私も気に入った、また来ると思う。
ここでピザをぱくつきながらあれこれと話したんだけど、札幌に帰ってインタビューの録音を聞き直してみたら、インタビューとはとうてい言えず、完全なるおしゃべりだった。私も同じくらい話していて、ほんとに情けないったら。ただ、明倫AIRの始まりには、オランダにいたときにひょんなことから加わる流れになって、立ち上げの時に町の人にAIRに関する説明をしたり、最初の招聘アーティストの付き添いでも滞在したりしたこともあり、ただの調査対象ではないのだ。責任も感じている。
人と向き合う事業のAIRの現場や運営は、想定外の出来事が山のように起こる。なにしろ人と人ですから、、、。もちろんスタートから10年以上が経過していると、現場運営者は歳をとり、社会的立場も変わり現場に生じる大きかったり小さかったりする日々のトラブルを含んだ出来事にうまく対処できなくなってくる。それは私も同様なんだけど、補助金を獲得しながらもほぼ手弁当で自分たちのモチベーションだけを頼りに続けるしかない地域の現場の疲弊感に共感する。
それは、鳥取県に限らずどこの現場でも似たような課題や問題を抱えている。抱えてはいるものの、自分たちの生活、日常の延長線上であるから根本的な課題解決に結びつかない。
なんとかやり過ごして乗り切る、の繰り返しになっていく。
つまり、アーティストやプログラムのマネージメントが「仕事」ではないことが今日の課題や行き詰まりの根っこにはあるのではないか。
ホテルに戻ってからも、明倫AIRのこれまでのことや川部さんとのおしゃべりを思い出していた。川部さんは、「AIRに特化した外部機構がほしい。アーツカウンシルと名乗ると、様々な形態の事業や全ジャンルを対象にすることになるのじゃないかと懸念がある」とおっしゃった。とはいえ、私が必然性を感じたのは、“地域とアーティスト”のマッチング、アーティストの選定をする機能」であり、県内各地の団体運営者が集ってアーティストの選考委員会をつくるとか、米子の来間さんが話しておられたような「プラットフォーム」も機能するのかもしれない、とかそんな話をした。
解決策はあるだろうか。
通勤時間少し手前の山陰道をまぶしい朝日に向かって走り、鳥取空港へ向かう。
記憶の中の鳥取と、仕事として向き合う鳥取がいつもいつも重なり合うセンチメンタルな旅だった。だから、だから今思うのだけど、自分の描く未来が、鳥取のコノサキと重なり合ったとしてもいいんじゃないか。
2022年9月からこのリサーチプロジェクトのために札幌から鳥取への移動は、今回で5回目となった。始まりはまだコロナが明けたばかりで空港までの移動がコロナ以前に戻っておらず選択肢が少なかった。あれから10か月が経過してかなり以前の状態まで戻ったようだ。私にとっては道外の出張も増えたし、なにより天神山アートスタジオがニセコのように海外アーティストで溢れかえっている。このリサーチの旅が始まった頃から現在まで、13室あるアーティスト専用のスタジオはほぼ満室が続いている。
2月の倉吉のあと、3月の末にも年度の活動のまとめイベントのために鳥取に来ている。札幌から鳥取に向かうには、フライトだと必ず羽田で乗り換えがある。それがなんとも退屈で、別ルートを試してみた。新千歳空港から低料金のチケットがある神戸空港を利用して、三ノ宮からJR特急で鳥取入りする。フライトは1時間半から2時間、特急は2時間ちょっと。乗り物に乗っている時間は羽田乗り継ぎのフライト2回だと2時間半程度だから、数字だけみると乗り継ぎのフライトの方が早いのだが、私にとっての快適さ移動の喜びは断然神戸空港利用である。海に浮かぶこぢんまりした神戸空港はもともとお気に入りだったし、モノレールにも乗れる。神戸の港町の雰囲気もよい。三ノ宮から乗り込むJR特急も、好きだった。今度からこれで行こう。
そんな満足度の高い移動で、鳥取駅に着いた。ホテルに入る前にドトールにこもり抱えていた仕事を片付ける。夕食はデパ地下で調達して万全、到着した夜に、ことめやで赤井さんと竹内さん、オンラインで水田さん、岡田さんと集って打ち合わせをした。翌日お話を伺う『鳥の劇場』の中島諒人さんが、リサーチプロジェクト第一弾の大トリとなる。これまでのインタビュー、3月末のAIRミーティングを経て、方向性が整理され密度は高くなっているのを実感する。議論もフォーカスがかかりやすくなってきている。のろのろとした歩みだったが、この時間は必要だったのかもしれない(言い訳でもあるが)。
最後のインタビューを前に私もなんとなく緊張している。一泊二日で、鳥の劇場のインタビューに集中できるのは良かった。いつも押し寄せてくるセンチメンタルな気分が入り込むスキもない。
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鳥の劇場 / 鳥取市
鳥取市内中心部から鳥の劇場が拠点を構える鹿野町まで車で余裕をもって40分。
水田さん、岡田さんとオンタイムで合流。
2000年代に入って、国内ではアートNPO、そのネットワークミーティングが活発になっていた。私も当時は札幌のNPO S-AIRでレジデンスの運営に参加していたので、鳥の劇場についてはその頃から知っていた。たぶん、どこかのミーティングでも中島さんに会っていたように思う。NPOミーティングの会場エレベーターの中で中島さんと北川フラムさんと乗り合わせたのもなぜか覚えている。2009-2010年にかけて、明倫AIRの始まりに参加していた時にも、鳥の劇場の存在が明倫のみなさんのモデルとしてよく話に出ていた。活動については、公式ウエブサイトから引っ張っておく、『2006年1月、演出家・中島諒人を中心に設立。鳥取県鳥取市鹿野町の廃校になった幼稚園・小学校を劇場施設へ手作りリノベーション。収容数200人の“劇場”と80人の“スタジオ”をもつ。劇団の運営する劇場として、「創る」・「招く」・「いっしょにやる」・「試みる」・「考える」の5本柱で年間プログラムを構成。現代劇の創作・上演と併行して、ワークショップ、優れた作品の招聘、レクチャーなどを実施する。2017年度より、「若手演劇人の成長サポート」という柱を追加した。』
鹿野町は戦国時代につくられた城下町で坂道と道幅の狭い道が印象的。山の方に上がっていくどんつきに、鳥の劇場がある。
今回のインタビューを受けてくださった中で、活動の発端になった既存活動として鳥の劇場をあげた人は4人。ネットワークの中心に鳥の劇場、中島さんが存在していると捉えている。このリサーチが始まったのは、【2012年の暮らしとアートとコノサキ計画→鳥取藝住祭→totto→鳥取クリエイティブプラットフォーム(仮)】の10年間があったからだ。この一番始まりのところに、中島さんがいる。
概要として、「鳥の劇場の継続のために、また鳥の劇場という自分たちの活動だけでもなく鳥取県として、アート活動を愛好家のためだけのものにしておくのではなく社会のためのソフトなインフラとして位置付け、機能させていけないものかと鳥取県、文化行政と協働していく中でスタートすることになったのが、暮らしとアートとコノサキ計画だったとのこと。この社会的な視座をもった新しい取り組みがその後の鳥取県内のAIRや、各地の地域を出発点にしたプロジェクト、取り組みへと波及していくのだからその当時の影響力や推進力の強さが想像できる。
これまでの流れを伺いながら、私の脳内では、これまでのバラバラと散らばっていた情報や印象がパズルのピースがパチパチとはまっていくような気持ちの良さがあった。
規模もトライ&エラーの経験値も比較にはならないけれど、公共施設を新しい文化活動の拠点として運営している私の悩みと中島さんのお話でふと出てきた課題(のように思えた)には共通するものがあった。それは、次の世代に引継ぎをしていくために、私(たち)のやり方を変える、または捨てなくちゃいけないけどどうにもうまくいかないということだ。
アートの現場にいる、プロジェクトに参加するという意識は、現場で働くという雇用に変わってきている。若い人が関わり続けるために、雇用のしくみを整備する必要があると。
これまでの(私の世代の)アート活動は、個人の意思やモチベーションに依存してなんとかかんとかやってきて、いまここ、なわけだけど客観的に評価すると「個人」の生き方、考え方でしかなくて、他者に流用も共有もできないというシビアな現状がある。行き詰まるのだ。事業や活動の継続には、自分以外の、若い世代の参加者が必要で、そのために私自身ここにきてしくみ、制度、政策の必然性をリアルに認識するようになったのだ。中島さん同様に、10年前くらいまでは、政策は自身の活動、アートを社会化するために必要だと考えていたが、今は継続のための基盤だと考えるようになった、そして中島さんと話をして確信した。確信すると、心構えも変わってくる。
さらに、この政策づくりは行政まかせではなくて現場と行政が協働していくべきだとも、、、。
中島さんにお付き合いいただいて、暮らしとアートとコノサキ計画から現在までを振り返りながら、冗談のようだけど「暮らしとアートとコノサキのソノサキ」の意見交換をした。もちろん私は鳥取県内のすべての活動を伺えているわけではないけれど、今回お会いした方々のほとんどは、高い熱量で真剣にアートプロジェクトに取り組んでいながらアート専従者ではない。ほかの仕事とアート活動を同時にやっている。この姿が鳥取のアートの現場のキャラクターなので、ここを前提にして「鳥取県内のアート活動が活性化するためにどういう機能が必要か」と考えていくと、「鳥取県全体のアートマネージメント機能が必要なのでは?」と中島さんがおっしゃる。私も同様の方向性を考えている。
つまり、対外的な評価を得る、継続させていくための成果を上げていこうとするとき、「広報」「アーカイブ」「情報収集」ができると仕事を自己検証するためのPDCAが揃う。しかしながら、これらの実務を成果が実感できるまでやるためには、兼業という条件では難しすぎる。各現場、プロジェクトで手の回らないこれらの実務を引き受ける機構、専従人材が必要では?ということなのだ。ここを叶えられると、鳥取県全体のアート活動は必ずや活性化していく。これは県の文化行政が目指す方向性と合致する(だろう)、と思う。
【2012年の暮らしとアートとコノサキ計画→鳥取藝住祭→+〇++〇(トット)→鳥取クリエイティブプラットフォーム(仮)】の、後ろ半分、【+〇++〇(トット)→鳥取クリエイティブプラットフォーム(仮)】このフェーズのあるべき姿、見据える未来が見えた気がした。
これからは波を捉えていかないといけない。案外とこういう大きな動きは、思いがけないタイミングでやってくるもの、おこたりなく準備せよ。
大トリにふさわしい鳥の劇場インタビューだった。
最後に、
実りあるおしゃべりになって自分の現場やAIRを再考する機会になったことを心から感謝しています。何度かに分けて(時間をおいて)書き直したリポートを読みながら、乱暴に駆け足で巡ってしまったなと反省が押し寄せてくるし、人と会うために訪ねた場所を、今度は時間をかけて気ままに歩きたいという気分になった。どこもいい場所なのです。妄想と希望と絶望をかきたてられる! アーティストにはぜひ行ってみてほしい。リポートには書ききれなかったけれど、入る店はどこもはずれなく美味しかったことも付け加えます。いってつかい、鳥取へ。
そして、今回お会いした方みなさんに、またお会いしたいです、発表までに長い時間がかかってしまいました。ごめんなさい、どうもありがとうございました。2023.12.31
Movie by
アーティスト
1983年中国生まれ、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ卒業、2016年から、主に上海と日本 を拠点として活動。2020年、上海から東京に移住。アートは視覚性や審美性の生産ではなく、思考の方法、想像力のゲームとして捉えている。フルクサスのような、日常生活の場や公共空間で作品を展開することを好む。個人的な経験や感情をもとに、コンセプチュアル、パフォーマンス、イベント、映像、イメージ、サウンド、テキストなどを自由に扱って、ユニーク且つ普遍的な状況に、個人的や即興的に対応しようとしている。作品は「ユーモアとアンビバレンス」を併せ持つと評されている。
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